Ultimate Healing 28
第二十八話 箱を受け取る
階段を下りると、リック・ロスにそっくりの黒人が寝ている。紅茶色の肌をしている。かれは、ヒロ兄が書いていた門番。まだ夕方だから、仮眠している。かれを起こさないよう、そっと乗り越えようとしたが、足を踏んづけてしまい「ヤアー」と声を上げた。しかし、また、すやすやと寝息を立てる。よく眠っている。扉を押すと開いた。そこは、何にでも変移しそうな立方体だった。カアバ神殿の中はきっとこんな風だろう。ずっと前、明治通りと表参道の交差点にこんなカフェーがあった。有袋類の巣のように黒く塗られていた。梟のいる森のように吹き抜けになっていた。あの大きなカフェーもこんな空間だったな。取り壊されてしまった。あそこからいろいろなことがはじまった。ヒロ兄と出会い、ヒロ兄との愉快な日々があり、ヒロ兄に「キミにはケレン味がある」といわれ、いまも考えつづけている。そして、ヒロ兄と別れた。ぼくと田村くんは、抽象的な黒い立方体へまたやって来た。背の低いテーブルの上にグラスへ入れた蝋燭が点っている。壁沿いに点々とつづいている。回廊の奥に、カラビ=ヤオ氏が腰掛けていた。何度でも来ることができる。われわれは鹿のように歩み寄り、かれの向かいに座った。かれはオレンジジュースの入ったグラスを、蝋燭のグラスの隣りに並べて遊んでいた。シャーロック・ホウムズを思わせるわし鼻。肌が白人のように白い。太陽光を求めるシダ植物のように逆立ったモヒカンは金髪で、てっぺんだけ赤く染めてあった。斜に構えて、何かを考えるそぶりをしていた。鮮やかなハチミツの香りがした。かれは、カスタネットのような音を立てた。「なんでヒロ兄なの?」——歯を見せて、口をほとんど開かずに、質問するのだった。「オマエら、なんでそんなにヒロ兄なの?」——この質問を聞いて、ぼくと田村くんは噴き出してしまった。「ハハハッ」——カラビ=ヤオ氏は、上機嫌なのだ。いや、けっこう、けっこう。「ビッグ・パパだっけ、やばいね、ビッグ・パパっていわれてたかも、この場所では、いや、もしくは——」と天板をノックするようにいい、「パパ・グランデ?」——われわれは、大笑いした。玩具のチンパンジーのような騒々しい笑いがカスバの黒い立方体に乱反射した。かれは青い目を光らせ、シダ植物の模様の麻布を巻いた首をかしげている。「バカだ、こいつら!」——われわれは、この男に「バカだ」といわれて狂喜した。かれはゴム引きジャケットからインスタント・カメラを取りだすと、猛禽類のような速度でぼくらを撮影した。閃光、閃光。「上にあった養蜂箱は、バシャールさんの作品ですか」とぼくは質問した。「そうだよ、よく知ってるね」——スプーンを銜えたまま喋るように、口を開かずにいう、「裾が短いでしょ、あいつ、オレらはバシャールなんていわないけど、バシャバシャって呼んでるけど」——ぼくと田村くんは水を浴びたように哄笑した。「やばいんだよ、あいつ、ハブられてる、かっこいいよ」と、かれは付け加えた。紅茶色をしたリック・ロス似の黒人給仕がやって来て、オレンジジュースの入ったグラスと青い皿を二つずつ置いていった。少量の青いハチミツが垂らしてあった。「お通し感覚で舐めてみて」とカラビ=ヤオ氏はいった、「ピーナツぽいかんじで、スペツナズぽいかんじで!」。人差し指の先につけて舐めてみた。田村くんもつづいた。すると、これはまさに、美味であった。ハーゲンダッツのように官能的な甘みのレイヤーに、ドリルで削りだしたばかりの岩塩のクリスプさが統合されている。塩辛い粒子を舌でころがしたのち、ふたたび最前面のレイヤーへ帰還したなら、最初のセッションよりエロティックさを増したたくましいとろみが、口いっぱいにラスタライズされるよ。けっこう、けっこう。すると、カスバの立方体に、じわじわとクリームのような親密さの粒子が満ちてきた。われわれは引力を感じた。空気が重たくなり体温が上がった。どろどろとした友情の粘液が、風呂に水を張るように水位を上げていった。まるでハチミツの中にいるよう。べっとりとへばりつく。柔らかい服を着てくればよかったな、と、ぼくは考えていた。おかしなことが起きた。カラビ=ヤオ氏が、物凄く邪悪な人間のように思えてきた。かれは青い目でこちらの様子を伺っていた。てっぺんだけ赤く染めた金髪が、シダ植物よろしくするすると天井へ伸びているような気がした。「ぐるぐる回ってるんだよ」とかれはいった。「ぐるぐる回ってるんだよ」と。「ヒロ兄、いいよね」とかれはいった。「ヒロ兄はぼくたちと仲良くしてくれて……」と田村くんがいった。この人がオレンジジュースのグラスを片手に平気で喋れるのが、ぼくには不思議だった。このべとべとのハチミツが充満した空間で、よく手が動かせたもんだ。「そのことを考えると、涙が止まらないんです」と田村くんはいった。「もういいんだよ」とカラビ=ヤオ氏が答えた。はじめて気がついたのだが、かれはゴム引きコートの下に黒いシャツを着ているのだが、そこに無数のステッカーが貼ってあるのだった。なんて書いてあるのか、目を細めてみても、ぎりぎりの所で、読み取れないんだ。「ヒロ兄のことなんて忘れていいんだって、オマエらがぐるぐる回ってどうすんの?」とカラビ=ヤオ氏はいった。「ちょっとトラブルがあって。青いハチミツを供給しすぎてて。完全に狙われてた。ロシア人に。シチリアのマフィアからも連絡来てて。青いハチミツが来ない、来ないって。どうなってるんだって。船は出発してるのかって。それで、オレがケツ拭いておいたんだ。全部払ってあるし、資金も回収してあるから、ヒロ兄のことなんてもう忘れていいんだよ、アーイ?」——と、かれはいうのだった。「ヒロ兄のことなんて忘れていい」とカラビ=ヤオ氏はいう。「オレがケツ拭いておいた」とおっしゃる。ぼくはこれを聞いて、びっくりしてしまった。なぜなら、今回、いろいろな話を聞いてきて、「ヒロ兄のことなんて忘れていい」といった人は、この男が最初で最後だったからである。たしかに、あの人のことなんて忘れていいのかもしれない。ぼくは初めてそう思った。リック・ロス似の黒人がそこにいて、盆の上にのった小箱を差し出していた。田村くんが手を伸ばして受け取った。それは木の箱だった。誕生日ケーキくらいの大きさ。イタリア語で焼き印が押してあった。「中身は二人で決めなよ」とカスバのバーテンダーはいった。田村くんは左手で重みを確かめてから、ぼくにパスした。重いといえば重いのだが、軽いといえば軽かった。つまり、何かしっかりと物は入っているのだが、そこまで重い感じもしない。傾けると、何かが動くのだが、大きめの物がひとつという感覚で、カサカサといろいろ入っている訳ではないらしい。なんだろう。われわれはカラビ=ヤオ氏に対して丁寧に礼を言ってから、まだ膝の下くらいまで浸かっている青いハチミツに足を取られながら、カスバを辞去したのである。
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- Published:
- 6.1.10 / 9am
- Category:
- Ultimate Healing
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