Ultimate Healing 26
第二十六話 カスバへ
そろそろヒロ兄を終わらせようと思う。書きはじめたころは、ヒロ兄への重苦しいほどの思いがあった。しかし、さらさら書けるようになった。途中でわけの分からない話もでてきた。これが自分なのだ。前回のエントリーの冒頭、自分でも何を書いてるんだかさっぱり分からない。しかし、これはこれでいいだろう。問題は、そこから先である。書けていない。ナオヒロさんがまったく書けていない。或いは、じっさい、ぼくの部屋で話したことは確かなんだけれど、同じような描写がつづいてつまらない。大胆に場所を変えてしまえばよかった。こうして、くよくよと考えることがある。田村くんはこういう。ヒロ兄のために少しでもいい、興味深い絵をデリバリーしたいけれど、この思いが強すぎて、上手く描けないと。けれども、進んでいくことがだいじなのだと。ヒロ兄が好きだ。ぼくと田村くんは、ヒロ兄が好きすぎる。これだけやっておいて、何を今さらって話だが、このことに気がついた。ヒロ兄に会いたい。ヒロ兄を抱きしめたい。ヒロ兄の鼻をつまみたい。われわれは、カスバへいく。ヒロ兄が「アルティメット・ヒーリング」に書いていた、六本木にあるというバーへいこうと思う。タケイ・グッドマン氏と宇宙的な偶然で出会った夜、かれが口にしたのがこのバーだった。われわれは、ヒロ兄が遺した詩をすべてよんでみた。あらゆるデータが、ハードディスクに入れてあった。片方がクラッシュしたときの為に、二台に分けて保存してある——しかし、カスバの話は見つけることができなかった!——たぶん、中央情報局の人間に消されたのだ。「消された?」とぼくは聞いた。「消されてるね、間違いなく」と田村くんは答えた。こんなことがあるのだろうか。ヒロ兄が書いた詩の中でもっとも印象的なものの一つが、見当たらないなんてことが。タケイ氏にメールでこのことを報告すると、「スーン、消されてるよ、それ」とのこと。「ハッキングされてる、クラックされてる、どう考えても!」——外国人が日本人の女とブーガルーするバー、カスバ。どこにあるんだろう。ぼくと田村くんは、とりあえず、六本木の駅で下車した。どうすりゃいいのか。シルクヱビスを片手にぷらぷらと歩きはじめた。「ヒロ兄がさ」と田村くんがいう。「クラブの地下でさ、上半身裸になってさ、大きなハチミツの壺をもってたって話、したっけ」「いや、初めて聞いた」——「ヒロ兄のさ、ヒロ兄の父さんがさ」と、ぷらぷらと歩きながら、また話しかけてくる。「いきなり電話かけてきたのね」「へえ、息子のことで話がしたいって?」「いや、モデムのつなぎ方、教えてくれって」——なんだよ、それ。どんな家族だよ。もっと他に聞くことあるだろ。というか、どんだけタケイ家に入りこんでるんだよ、オマエは。しかも、こんなときになって、全然知らないヘンな話するな。まだまだでてくる、ヒロ兄の逸話。とりあえず、もういい。上半身裸でハチミツの壺もってたとか、いちいち掘り下げはじめたら、キリがない。いちいちありありと描写してたら、日が暮れるわいの。われわれは、六本木通りを並行移動していたが、やがて、足の向くままに、細い、苔の生えた、コケティッシュな露地へはいっていった。東京では、どこを歩いていたって、こんな道に迷いこむのは、造作もないことだ。われわれは、こんな道が好きだから、いつのまにか歩いている自分たちに気がつく。どこにいるんだか、まったくわからない。ヒロ兄のことが好きなのと、まるで同じなのだ。腐食したオレンジの反射鏡が立っている。背の低い垣根が道伝いにつづいている。チューブのように歪んだ姿をぼうっと眺めながら曲がると、道はやや広がり緩やかな下り坂になっていた。白い橋梁と風に凪ぐ東京湾が見える。無限に変化しながら砂のように輝いている。ぼくらは立ち止まってこれを見ていた。ぼくらはこれをどこかで見たことがあった。何万光年も先の宇宙のようだったし、午前三時にスイッチを入れたブラウン管のようでもあった。「この道、ヒロ兄っぽくない?」と田村くんがいった。「ヒロ兄っぽいね」とぼくは答えた。「ヒロ兄っぽい道を歩いていこうか」とかれは提案した。「書いていたでしょう、東京のあらゆる場所に、ヒロ兄の記憶は澱んでるって。ヒロ兄の思い出が、いつまでも通りを歩いてるって」「書いたけど、思いつきだよ」「いこうよ」——われわれは、ヒロ兄っぽい道を歩きはじめた。いっておくが、この道はグーグルマップには載っていない。しかし、読者のために、この世界でヒロ兄の痕跡を探そうという来るべき友人のために、ここからの道のりを、できるだけ詳しく記しておくことにする。まず、ヒロ兄っぽい緩やかな坂道を下っていくと、ヒロ兄っぽい駄菓子屋がある。ラムネを買って飲みながら、まっつぐいくと、「ヒ」の形をした三叉路にでるだろう。ただの分かれ道かと思ったら、左の道が、少しいった所でまた分岐しているので、気をつけて欲しい。分岐した方を右へいく。この方角は、ヒロ兄の故郷、富士山とほぼ一致するから、天気のいい日だったなら、霊峰が目印になるだろう。さて、いつかの選挙ポスターが、ヒロ兄っぽくへばりついた壁沿いに歩を進めたなら、中央に白いペンキで「ロ」と引かれている交差点に行き当たる。ぼくらのときは、ここで初めて、この道で合っていると自信をもった。「ロだね」「やっぱりあったね」。しかし、次のルートは難易度が高い。なにしろ、交差点。三つのオプションがあるでしょ。しかも、フェークが二つあるんだ。まず、まっつぐいくというオプション。目の前をよく見ると、かなりヒロ兄っぽい肉屋がある。これが罠。主人はヒロ兄に生き写しだし、女将もヒロ兄に生き写しなんだ。ふざけてるよ。まじで危なかった。このルートは絶対にいったらヤバイと思って、ぼくと田村くんは、逆に外したんだ。わかるだろう。で、右か左かって話なんだけど、右がフェークだから、気をつけてね。看板がでてるんだ。「ヒーロー・ニールズヤード」っていう、よくわかんないテーラード服の錆びた看板。「これかな?」「いや、探してるのは『兄』だぜ?」——こうして、ぼくたちは、左の道を選んだんだ。いつのまにか日は暮れかけていた。スニーカーの靴音、カレーの匂い、蝙蝠が羽ばたく音。側溝の蓋の上を、ヒロ兄にしっぽが生えたような猫がついてくる。紫のレンガ造りの建物が両側に立ち並んでいる。崩れ落ちそうなヤシの老木に寄り添うように、へんてこな形をしたオブジェが配置してあった。ブラウン管を思わせる木の箱に、先端がカーブした足が生えている。「兄」という字に見えなくもない。吸い寄せられるように近づくと、田村くんが中指でコツコツと叩いた。それは養蜂箱だった。「兄」の形をした養蜂箱——なぜだろう、ぼくは、これが裾の短い芸術家、バシャールの作品なのだと直感的に分かった。すぐそこに青いネオンがまたたいている。カスバ。ぼくと田村くんは、レンガに口を開けた地下へ通じる階段を下りていった。
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- Published:
- 5.14.10 / 1am
- Category:
- Ultimate Healing
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