Ultimate Healing 25
第二十五話 リアル・ナオヒロック氏の訪問
マンマミーア、膝の裏が痒いよ。ヘロドトスよ。汝は五月になつたら晴れるといつた。たしかに晴れたが、膝の裏も腫れた。古代ローマ帝国では、アトピーに苦しむ人はいたのだろうか。過ぎ去った春の嵐。あの愚かしい四月の天気のせいで、ぼくは痒い。痒いんだ、マンマミーア。おお、シチリアの鳥たちよ、あの黒々とした波頭と戯れる、キマイラの末裔よ。膝の裏を掻きしむれ。ついばめ。草木の汁よ。黄色い体液と血潮よ。書いて掻いて、書きむしるがいい。虫たちよ。囁きたまえ。ヒロ兄はあそこにいるよ、と。美しい鳥たちよ。ついばめ、イモ虫を。食べるがいい。ぼくたちは、綿密な調査を重ねてきた。想像力をたくましくした。水平線から少しずつ、この物語は姿を現した。さあ、もう一度、三月のあの夜に戻ろう。ああ、痒い。掻いてもいいなら、書いてもいいだろう。ほら、東横線の高架下を、まっ白な一本の人骨が、こちらへ向かってくる。骨が歩くだって!いや、骨じゃない。あれは、ロウソクだろう。消えかかった最後の炎をゆらゆらと灯した、まっ白な一本のロウソクが、こちらへ向かってくる。間違いない。リアル・ナオヒロック氏だ!目をまっ赤にしている。頬はこけている。蒼白。しかし、風に吹き消されようとするそのとき、二つの眼光はいよいよ妖しく発光する。もう、すぐそこまで来ている。凍えた猟犬のようだ。ぼくと田村くんは、じっと待っている。ああ、そうだ。リアル・ナオヒロック氏だ。かれは会釈をして、われわれの目を冷たく覗きこみ、いった。「もしかして、もういいかんじなの?」——返答に迷った。ついさっきまで、タケイ・グッドマン氏とドライブへいっていた。いいかんじといえば、いいかんじだが——「いや、いいかんじではないです」。目をまっ赤にして、つまらなそうに、「ふうん」——ぼくは酒屋へ駆けこみ、缶ビールを何本も買いこんだ。「さあ、ぼくの部屋へいきましょう、ヒロ兄のことを、話してくださいな!」——急行列車がよく見える窓辺のソファに腰掛けるなり、かれは黒い髪を掻きむしった。「逃げられなかったんだ、オレはいつも自分の店にいたから……逃げられなかったんだ!」——許してくれ、許してくれヒロ兄……と懇願し、かれは苦悩を隠そうとしなかった。「オレはヒロ兄に何もしてあげられなかった、だが、ヒロ兄はオレに何でもしてくれた!」——ああ、悪魔よ。ここにも友情は、青いハチミツという名の人間の善は存在しているぞ。「オレは商売をしていたから、気分が落ちこんでいるとき、あの人がいてくれた。くよくよしたってしょうがないぜ、遊びにいこうぜ、なんて、一言もいわなかった。ヒロ兄は、ただ、オレといっしょにいてれくた」——こういうと、黄金色の缶ビールを一息に飲み干した。「だが、度が過ぎるといけない、あの人はいつも、オレの店へ来るようになった。エマニエルという会社だったんだが……あるころから、ヒロ兄は、勤めていた会社のホワイトボードに、午後の予定は『エマニエル』と書いてあるだけだったらしい。同僚は首をかしげていたという!」——まくしたて、まるで一本の骨のように、強風に晒されるロウソクのように、がたがたと震えだした。田村くんが、新たに缶ビールの栓を開け、手渡す。「ぼくたちは、ヒロ兄ではなくなっていったヒロ兄については、いくつかの証言を集めてあります。これは、確認のために質問するんですが、何か、変化の兆しはありましたか?」——かれは、凍った大地の匂いを嗅ぐ猟犬のように俯き、よく考えてみてから、「素材が……服の素材が、柔らかくなっていったんだ!」と叫んだ。これを耳にして、ぼくと田村くんは、つい笑ってしまった。一晩に二回も、服が柔らかくなった人の話を聞くなんて、人生でよくあることではない。読者のみなさんも知っている通り、ヒロ兄は柔軟に、動きやすくなっていったのだ。けれども、ここから、われわれのインタビューは、急速に噛み合わなくなっていった。「東京に存在している友情から精製される、本物のハチミツを採取するために、あの人は柔らかい服を着るようになっていきました。かれは友情を青いハチミツとしてシチリアのマフィアへ売却し、多額の利益をさらに友人へ投資するという錬金術、永久機関を作り上げようとしていました。この組織ではビッグ・パパもしくはパパ・グランデと呼ばれており、まさにフィクサーだったんです。本物のハチミツについて、何か耳にしたことはありますか?」——ぼくは質問した。リアル・ナオヒロック氏は何が何だか、さっぱりわからないといった風で、二つの手の平で白い頬骨を撫でていたが、「ああ、本物のハチミツね……」といったん話を合わせようとしたあと、「え、なんの話?」と、切り返した。「本物のハチミツです」と田村くんが念を押すようにいった。「ただのハチミツじゃないんです、本物なんです。枕に垂らして眠るんです」。ぼくらは、二人で説得しようとした。「ヒロ兄が消滅した原因は、ここにあります。本物のハチミツが原因です」。リアル・ナオヒロック氏は、まっ赤な目でわれわれを交互に眺めていたが、やがて、「いや、知らない」といった。そこで、ぼくは次のように質問した。「じゃ、ナオヒロさんは、ヒロ兄の消滅の原因は、何だと思いますか?」——すると、リアル・ナオヒロック氏は、炎の点ったロウソクのような静謐さで思案したあと、「長男としてのプレッシャー」と断言した。ぼくらが難色を示すと、「あれ?ちがうの?」と付け加えた。「あれ、おかしいな……」——缶ビールを飲んで、「長男としてのプレッシャーから、わけわかんないモノに手ェだして、わけわかんなくなったんじゃないの?あれ?」——リアル・ナオヒロック氏は、名前の通り、とてもリアルな物の考え方をする。あくまで現実主義なのだ。ぼくたちは何とか、材料がないか、探した。ハチミツなんて知らないという。シチリアのマフィアは聞いたことがないという。裾の短い芸術家も、ハンマー投げのヤムジーも、勿論、会ったことなんてない、とおっしゃる。われわれは沈黙した。「『猫好きの紳士』なら、知ってる」——かれは、にっこりと微笑んだ。「妹のカナちゃんが描いた、ヒロ兄が主人公の絵本。知らない?ヒロ兄は、猫好きの紳士なんだよ」——猫好きの紳士、ヒロ兄!——これが、ぼくと田村くんが手に入れるべき、最後のピースなのだろうか。ハチミツが好きで、猫が好き。そんな男を、ぼくたちは、この広い世界で探すのか。ヘロドトスよ。歴史家よ。このあと、リアル・ナオヒロック氏は、クラブへいくときは、主にナンパが目的であること、某有名レーベルより、ラッパーとしてソロデビューする話があったことなどを語ってくれた。こうして、ヒロ兄まみれの三月の木曜の夜は、終わったのである。
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- Published:
- 5.5.10 / 11pm
- Category:
- Ultimate Healing
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