Ultimate Healing 23
第二十三話 何を見てもヒロ兄を思い出す Part 6
何を見てもヒロ兄を思い出す。バシャール氏の話はつづいた。青い樽のある集会所は、午前一時になってもトラックの地響きが鳴り止まない大通り沿いにある。点々と点った街灯と、閉店した家具屋が点けっぱなしにした灯りだけで、辺りはいつも仄暗い。「まるで目黒通りのような国道です」と裾の短い芸術家はいう。四階建ての郵便局を過ぎ、いくつかの古い家具屋を過ぎ、外国人ばかり泊まっているリノベーションされたホテルの前を、シチリアのマフィアは靴音を立てて通り過ぎる。コッポラ帽の陰で、かれらは笑っているという。鼻歌を歌う。青いペンキでべったりと塗られた樽は、白い壁の六階建てアパートの前に置かれていた。エレベーターをつかって、五階にあがっていく。「かつてマフィアたちは、みんなこのアパートに住んでいました」と裾の短い芸術家はいう。「扉に何人ものあだ名がハサミで彫りこまれた集会所で、マフィアたちは何年も寝泊まりしていました。隣りの部屋には、あたまを五分刈りにした職人気質の一人のマフィアが、何人もの女を取り替えながら、五年のあいだ、暮らしていたといいます」「かれは目が覚めたら、すぐに『スタジオ』へ顔を出したかったんですね。いつだって、だれかがいる。寝袋に入り絨毯の上に横たわっている。こいつを蹴っ飛ばして起こし、気の向くままに、本物のハチミツを舐めることができました。あのころは、好きなだけ手に入りました。わざわざ東京のビッグ・パパから仕入れる必要なんて、まったくなかったんです」——しかし、今はちがう。プッタネスカと寒ぶりのソテー。ほろほろ鳥のグリル。ジェラートをのせた、イチゴのマリネ。ある日の晩餐のメニュー。「かれらはテーブルを囲む前に、新聞の切り抜きを、壁に画鋲で留めていきます。所々が剥げ落ちた壁は、黄色く変色した切り抜きで、いっぱいになっています」「食事をしながら、にぎやかに議論をします。『墜落する飛行機の操縦士が気を失いそうになるのを、副操縦士が必死になって勇気づけたかもしれないぜ』」——食事を終えると、シチリアのマフィアたちは儀式をはじめる。冷蔵庫で冷やしてあった、本物のハチミツの入っている壺を取りだし、絨毯の上に置く。かれらはこれを取り囲んであぐらをかく。あぐらをかいて、昔の話に花を咲かせる。『こいつが車を運転していて、これから死んでもいい?といった。いいよっていったら、壁に向かって物凄い速度で走りはじめた。ぎりぎりでブレーキを踏んだけど、こいつの恥ずかしそうな顔といったらなかった』なんて小話をし終えると、小さじで本物のハチミツをそっと舐める。「青いハチミツです」と裾の短い芸術家はいう。「洞窟のように青いハチミツなんです」——小さな思い出が一つ、浮かび上がるたびに、小さじに一すくいの本物のハチミツがなくなっていく。ヒロ兄もこの集いに同席したことがあるという。シチリア島では、パパ・グランデと呼ばれていたという。夜が更けてくると、たいてい<マルガリータ>になるという。「友人と別れたくないんですね。いつまでもいっしょにいたいんですね。本物のハチミツが、この思いを強くします。本物のハチミツは、友情をぴったりと貼り合わせる糊のような存在なんです」——かれらは、壺を中心として放射状に寝ころがる。上から眺めたら、マーガレットの花のように映るだろう。だから、マルガリータ。シチリアのマフィアたちは、洒落ばっかりいっている。かれらに見えるのは、天井と木製の空調機だけ。しかし友人の声は聞こえる。『起きてるかい?』『起きてる』——本物のハチミツが舐めたくなったら、むっくりと起き上がり、そっと舐めて、また横になる。『起きてる?』『起きてるよ』——「こんな風にして、かれらは朝までぬくぬくしているといいます」「思えば、たいへんな一日でした。新聞を熟読しなくてはいけなかったし、昼寝の時間をきっちりと確保しなくてはいけなかった。タフな散歩でした。帰ってきたらすぐに、切り抜きの作業が待っている。合間を縫って、夜、どんな小話をするか考えなくてはいけない。シチリアのマフィアの一日はタフなんですね。ぼくには考えられないなあ」——裾の短い芸術家、バシャール・アル・バシャール氏は、こういうと立ち上がり、小魚の形をしたランプを点灯させた。扉の傍に立て掛けてあった、眼鏡橋で拾ってきた奇妙な形のステンレス棒を手にとる。外は暗くなっていた。三階の窓辺から見えるのは、火口から噴き上がるような水蒸気だけである。「血なまぐさい職人的な作業とは?」とぼくは質問した。同性愛的な友情と本物のハチミツは、しっかりと関係していた。では、もう一つはなんだろうか。「いいにくいんですが……」といいながら食器棚の下の扉をごそごそと漁り、ひょっこりと顔をだすと、「裏切り者のピーネを、ハサミで切り落とすんです」といった。「われわれの言語でいう、男性器です。イタリア語でピーネといいます。ハサミはフォルビッチです」——「ピーネ・タグリアート・ダ・フォルビッチ!」と、かれは歌うようにいった。しまってあった長靴と袋入りの土を、部屋のまん中へもってきって、何やら作業をはじめる。かれらは職人的にピーネを切断すると、裏切り者に女装をさせ、罪は許されるのだという。「四、五年ほど前から、女装をさせられるマフィアがじわじわと増えていきました。かれらは、本物のハチミツが足りていないからだと考えました。ビッグ・パパに、ビジネスの機会が訪れたんです」——裾の短い芸術家は、長靴の中へ、スコップでせっせと土を移していく。一杯になると、かれはステンレスの棒をぐさりと刺し、角度を調節し終えると、ズボンで手の埃を払った。ソファまでやって来て、隣りに腰掛けると、うっとりとオブジェを眺めている。「長靴で裾を覆い隠すってことかな」「ビッグ・パパはこういっていました、『オレたちには、船に積んで輸出するくらい、友情があり余っているんだから、何の心配もいらない』と」——しかし、ヒロ兄はじわじわと病んでいった。ぼくと田村くんは、はっきりとこれを知っている。あの人はこの男と同じように、われわれに投資したかったに違いない。だが、友情を売却して友情に投資するなんてことが、あっていいのだろうか。ぼくの目には、東京のあらゆるポイントに仕掛けた養蜂箱から、はりきって青いハチミツを採集しているヒロ兄の姿が浮かんでいた。バシャール氏は、また足をくるくると回していた。このとき、ぼくは初めて、かれが一言いってもらいたいことに気がついた。「いい靴下ですねえ、ヴィヴィアン・ウエストウッドでしょう?」——かれは、照れた。もじもじしながら、「生まれつき裾が短いから、できるおしゃれもあるんです」——こちらをちらちらと伺いながら、いうのだった——「人生をたのしまなくっちゃ」
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- Published:
- 4.18.10 / 11pm
- Category:
- Ultimate Healing
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