Ultimate Healing 22

 第二十二話 何を見てもヒロ兄を思い出す Part 5

 何を見てもヒロ兄を思い出す。犬が吠えている。窓辺に置いてあるソファに、ぼくは腰掛けている。裾の短い芸術家は、背伸びをして食器棚からカップを取ろうとしている。靴下がよく見える。かれは、浮いた足をぶらぶらとさせながら、ちらちらとこちらを振り返る。見下ろすと、薄汚れた白い毛に、青い斑点のある老犬が、こちらを見上げて吠えている。河原からついてきてしまったんだろうか。寒いんだろうか。三階へ上がってきて暖を取りたいのかしら。駅前通りを傘を差した人々が行き交っている。一階の八百屋のマダムは威勢のいい声を張り上げている。ここからでは意味をなさない音像となる。犬はまだ吠えている。地下鉄の昇降口の柵を窮屈そうに通り抜けた巨体の人影に、見覚えがあった。隆々とした右肩からピンクのエコ・バッグを下げている。二の腕に刺青が入っている。階段を思わせる筋の入った後頭部の肉に、雨水の膜が張りついている。傘は差していない。ああ、やっぱりそうだ。ヒロ兄からポートフォリオの指南を受けていた、ハンマー投げのヤムジーだ!階下の八百屋で足を止めた。水浴びしたラクダのような鈍重さ。猫と猫が殴り合いをしているアロハシャツ。二つの手をぐるぐると振り回し、何やらマダムと交渉している。青い斑点の老犬が、足元に馴れ馴れしく擦り寄る。商談が成立したのか、かれがピンクのエコ・バッグの口を開けて差し出すと、紐で結わえられたアスパラガスの束が、何束も放り込まれた。銀貨を何枚か支払い、通りを渡って煙草屋の角の露地へ入っていこうとする。歩調を早めて老犬がついていく。ぼくは急いで窓を開け、顔を突き出して叫んだ、「ヤムジー!」「おい!ヤムジー!」——びっくりしたように、汚い犬が首を曲げてこちらを見上げる。しかし男は無関心で歩き去ろうとする。「おーい!ヤムヤムジー!」——びっくりしたように、かれは回れ右をした。四月の雨に降られながら、訝しそうに八百屋の店先へ目線を送っている。「ヤムジー!ここだよ!」——かれは首をかしげ、何だかわからない、という顔をして、再び向き直っていこうとした。「ヤムヤムジー!こっち、こっち!」——すると、ヤムジーはこちらを見上げた。ぼくは嬉しくなって、手を振った。アスパラガスの穂先が覗いたエコ・バッグを掲げて、かれも手を振り返す。「裾の短い芸術家と、ヒロ兄の話をしているよー!」——階下のマダムが通りへ数歩、歩んできて、何事かと顔を上げる。ヤムヤムジーは口を尖らせ、「ヒロ兄ってだれー!?」「あなたが国債について相談をしていた、金満家の紳士だよ、熊のように大きな!」「ああ、ビッグ・パッパのことか!」——まとわりついてくる濡れた老犬を足蹴にしながら、「よろしくいっといてくださーい!」といって、ハンマー投げのヤムヤムジー氏は視界から消えてしまった。バイバイ。窓を閉めると、バシャール・アル・バシャール氏が、紅茶のポットと袋売りの人形クッキーが山盛りの皿、二つのカップをのせたプレートを手にして、小さな食卓の椅子へ腰掛けるところだった。「どこまでお話ししましたっけ?」——ぼくは改めて部屋を見回す。四十平米はあるがらんとした一間。白い漆喰の壁や木の板を並べた床に、絵の具の飛沫や彫刻刀で削ったような跡がある。キッチンと食器棚、窓辺にある古いソファ、一対のテーブルと椅子の他には何もない。「もっとエネルギッシュな作品が所狭しと置かれているのかと思いました」——裾の短い芸術家は、ぼくのカップにも紅茶を注ぎ終えると、クッキーをひとつまみ、「最初の顧客が、最後の顧客なんです」といった。「ビッグ・パパにこっぴどく叱られていたでしょう」——目を細め、胸を張り、「えへん、バシャール、本物の芸術家というのは、一つの作品が本当の価値を十分に理解され、しかるべき金貨が支払われるまでは、次なる作品に手を染めるべきではないんだぜ」と甲高い声でいい終えると、感想を求めるようにこちらを見た。「ビッグ・パパの物真似ですよ」「へへへ、バシャールううう、最初の作品は、いつも最後の作品なんだぜ」——ぼくはくすくす笑った。バシャール氏もくすくす笑った。「紅茶を飲んで下さいな、下の八百屋のマダムにいただいたものです」「シチリアのマフィアの話でしたね、かれらは昼寝をするんです。そして、タオルケットを蹴とばし、冷蔵庫を開け、クルミを剥いて食べながら水分を補給します」「ふむふむ」「午後二時半、シチリアのマフィアたちは散歩へ出掛けます。路上に渡されたワイヤーに洗濯物が揺れる細い通り、傾きかかった日差しがオレンジの皮を焦がす果物市場、石畳に工具が転がっている薄暗い自動車の修理工場、開店する前の、オレンジの傘付きランプだけが点った真っ暗なバール、縄張りのあらゆる所へ顔をだし、挨拶して回ります。『アルフレッド、皿洗い機の調子はどうだい』とかなんとか、いうんでしょう。『親指の先のように小さなマルコだと思っていたら、大きくなったマルコ』とかいいながら」——雨音に混じり、ポップコーンの爆ぜるような音、木造の柱がきしむ小さな音、雨樋から下水へ流れる雨水の水音が、ぱちぱちと響いている。像を結ばない曖昧な人の声や叫びが聞こえる。あたりは静かだった。「家へ帰ってくると、シチリアのマフィアはチーズケーキを食べながら、新聞の切り抜きをします。とりわけ情深い友情が存在していた記事に目を付けておいて、紙切りハサミで切り抜いていくんです」「ふむふむ」「これらをクリムゾンの牛革製の書類入れに保存してしまうと、夕方の五時です。かれらはシガリロの煙を吹かしたり、家具をつかって腹筋を鍛えたりしながら、一時間ほど、めいめい思い思いの自由時間を過ごします」——ぼくは日々、遠くシチリア島の何処かで行われているという、自分の人生と交錯するはずのない日課について想像していた。ヒロ兄はなんてラージな人だろう。引き替えに、何を取り引きしていたにせよ。「ここまで、カリカリに焼いたベーコンと溶かしたチョコレートをかけたアスパラガスとクルミとチーズケーキしか食べてませんね」「晩餐が豪勢です」と裾の短い芸術家が遮るようにいった。かれは一人で人形クッキーをほとんど食べてしまっていた。地下鉄の昇降口から、火口のように水蒸気が立ち上っている。「午後六時、男たちは身支度を調えます。胸ポケットから青い手拭いを垂らします。コッポラ帽子を目深に被ると、クリムゾンの書類入れのポケットに紙切りハサミを差し込み、これを小脇に抱えて家を出ます。青く塗られた樽が目印の集会所へ徒歩で向かいます。血なまぐさい職人的な作業と同性愛的な友情と本物のハチミツの夜がはじまります」


About this entry